足の神様・仏様

日本全国の足の神様漫遊記

護王神社【京都府下京区】

護王神社の紹介

京都の地下鉄「丸太町駅」で下車し、京都御所の西側を南北に通る烏丸(からすま)通りを北に向かって7分ほど歩いたところにあります。「いのしし神社」という異名を持つだけあって、神社の鳥居脇、拝殿の前、ご本殿前にそびえ立つ招魂木(おがたまのき)の根元、手水舎など、ありとあらゆるところに猪の像が安置されています。
境内には、お茶やコーヒーを飲めるスペースもあり、いのししに癒されながら、ゆったりとできます。
ご本殿の前の招魂木の根元には、足萎え難儀回復の碑があり、足腰の健康を祈願する参拝者が立てていった「足萎え難儀回復御守護」と書かれた小さなのぼりが多数ありました。境内北側には、和気清麻呂公の銅像が建立されており、その後ろには、国家「君が代」にも詠まれている大きな「さざれ石」がありました。
 
◇足の神様とは
奈良時代末、和気清麻呂公は、弓削の道鏡の怒りを買い、大隅国(鹿児島県)に、姉の広虫姫は、備後(広島県)に流罪となりました。清麻呂公は大隅国へ向かう途中に道鏡の放った刺客に襲われ、足の筋を切られました。その為、道中、宇佐八幡宮への参拝も予定していましたが、難儀を強いられました。一行が豊前国に差し掛かった時、300頭の猪が突然現れ、一行を宇佐八幡まで無事に導き、どこかに去って行ったと言います。すると、清麻呂公の足も不思議と完治したそうです。
称徳天皇崩御により、道鏡は失脚し、和気清麻呂公と広虫姫は、光仁天皇に許されて、都へ呼び戻されました。
また、平城京から長岡京への遷都が難航していた折、和気清麻呂公は、桓武天皇平安京への遷都を進言され、造宮太夫として平安京建都にも尽力されています。
 
 
和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)
和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)
 
◇配  祀
藤原百川公命(ふじわらのももかわこうのみこと)
路豊永卿命(みちのとよながきょうのみこと)
 
◇ 祭礼
 
護王大祭(護王祭・例祭) 4月4日 午前11時 
亥子祭(いのこさい) 11月1日 午後5時
他 
 
◇ 由緒
護王神社は、はじめ洛西の高雄山神護寺の境内に和気清麻呂公の霊社として祀られていましたが、確かな創建年は伝えられていません。古くから「護法善神」と称されていましたが、嘉永4年(1851)、孝明天皇は和気公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)、「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。
明治19年(1886)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門前の現在地に社殿を造営、姉君の和気広虫姫を合わせ祀り、御遷座されました。その後、崇敬者により境内に霊猪像(狛いのしし)が奉納され、いのしし神社とも呼ばれ親しまれています。
 
◆ 周辺の見どころ
 
菅原院天満宮神社 (菅公初湯の井戸)
日本聖公会 聖アグネス協会
 
◆鎮座地
京都御所蛤御門前)
 
 

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護王神社鳥居

 

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手洗舎の神猪

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足病治癒祈願

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和気清麻呂銅像
◇参考資料  護王神社のWEBサイト
 
元記事投稿日 平成22年7月10日(火)