足の神様・仏様

日本全国の足の神様漫遊記

神宮寺【青森県平川市】

◆神宮寺への行き方
  青森県弘前駅黒石駅を結ぶ弘南鉄道に乗り、津軽尾上駅で下車します。駅から平川市尾上総合支所に向かって歩いていきます。総合支所に面した県道117号線を西に向かって歩くと、猿賀神社や神宮寺への入り口があります。駅から徒歩で約20分です。神宮寺へ向かう途中の歩道に面した農地で、リンゴの木を発見しました。簡単に取れそうな所にリンゴがなっていましたが、写真に撮るだけにしておきました。

◆猿賀神社と神宮寺
  神宮寺は、同じ敷地にある猿賀神社と歴史を共にしています。猿賀神社の起こりは古く、仁徳天皇の御代(367年)に蝦夷征討の将として任に当たった上毛野君田道命(かみつけののきみ たじのみこと)が敗戦し、当地に祀られました。後に蝦夷がその墓を暴いたところ、田道命の遺体が大蛇に化し大暴れしたといいます。それを恐れた人々が、現在地の西方の猿賀野に祀ったのが猿賀神社の始まりといわれています。200年後の欽明天皇の御代(567年)、当地に洪水があり、田道命の神霊が白馬に乗って流木を船として、現在の地に流れ着き遷座されたとされています。桓武天皇の御代となり、蝦夷征討に苦戦を強いられていた坂上田村麻呂が田道命の霊に導かれて大勝したので、延歴12年(793年)に田村麻呂が現在の地に祠をつくり、大同2年(802年)勅命により社殿が造営されました。
後に仏教の守護神である深砂大王(じんしゃだいおう)と習合し、深砂大権現(神蛇宮)とも呼ばれるようになりました。以来、猿賀神社の別当寺として、また、天台密教の拠点として神宮寺は栄え、歴代領主に保護されてきました。しかし、天正15年(1587年)領主と南部家との対立があり、猿賀神社十二坊は破壊され、僧侶も追放されて、天台宗から曹洞宗に改宗させられ、別当も最勝院が務めるようになりました。元和6年(1619)、領主の津軽信枚が天台宗別当復権し、寺社領100石が寄進され、安堵されることとなりました。明治時代になり、神仏分離令が発されると、猿賀神社と改められ、神宮寺と支院は、破棄されますが、蓮乗院の存続と東光院の復興が許され、猿賀山神宮寺(天台宗)と改められ、現在に至っています。

◆神宮寺と大わらじ
  神宮寺の仁王門には、金剛力士像(仁王像)が安置されています。弘前藩旧記によると、文政6年(1823年)弘前鍛冶町秋田屋安五郎の作と言われています。後に、現地の住民たちが、仁王様の守護を祈願するために大わらじを編んで祈願するようになりました。大わらじに因んで足の健康を祈願する人々も有ります。

 青森県平川市猿賀石林166−2
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参考WEB
  くぐる鳥居は鬼ばかり-弘前・青森・坂・寺社仏閣
  yukiの自由気まま過ぎるブログ…青森県の坂・神社・建造物などなど

  猿賀神社公式WEB




yukiの自由気まま過ぎるブログ…青森県の坂・神社・建造物などなど