足の神様・仏様

日本全国の足の神様漫遊記

足手荒神・甲斐神社【熊本県上益城郡】

◆甲斐神社(足手荒神さん)の紹介
甲斐神社は、地元の人達には、足手荒神(あしでこうじん)さんと呼ばれています。熊本駅からバスを乗り継いでも行けるのですが、時間の関係もあり、今回は、熊本市の繁華街を走る市電の水道町駅から終点の健軍駅まで乗り、そこから10分ほどかけてタクシーで移動という形をとりました。9月20日には、馬追い祭りがあるらしく、足手荒神さんに向かう途中で1トンはあろうかと思われる大きな馬をハッピ姿の人達が引いているのを見かけました。
足手荒神さんが、鎮座されているのは、嘉島東小学校南側の田んぼや民家の中の木々が生い茂った所です。鳥居をくぐると、拝殿には、木製の手型、足型、ギブス等が奉納されていました。また、神社周辺は、湧水が豊富らしく、湧水天然プールなど下六嘉湧水群の水は驚くほど澄んでいました。
 
 
◆足の神様とは
天正15年(1587)隈本城主として肥後国に封ぜられた佐々成政の苛政に憤慨した領民たちを取りまとめ、甲斐宗立は、諸将と図り、一揆を起こし、隈本城を攻めました。一時は、優勢を保ちましたが、配下の謀反もあり、立花・島津軍に追われる身となりました。手足に傷を負った宗立を、現在の神社がある場所に居住していた領民たちが匿い、手厚く看護をしました。しかし、宗立は、戦後半年して、毛利軍の手により最後を遂げました。自らの危険をも顧みず、手厚い看護を施した領民に感激し、宗立は、最後に臨んで、「魂魄この世に留まり、子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであらう」と言い残して、この地で落命したと言います。
その後、近郷の領民の信仰を集め、ご利益を受け、手足の病が快癒した諸人が、手型、足型、松葉杖、コルセット等を寄進するようになりました。 
 
 
◇御祭神
甲斐民部大輔親直入道宗運公
(かいみんぶだいゆうちかなおにゅうどうそううんこう)
甲斐相模守親英入道宗立公
(かいさがみのかみちかひでにゅうどうそうりゅうこう)
 
 
◇ 祭礼
手型、足型、神符焼納祭     1月15日
足手荒神例大祭          2月15日
松葉杖、コルセット清め祓い祭 12月15日
月次祭        毎月1日、15日
 
 
◇ 由緒
阿蘇家の家臣として仕えていた甲斐宗運は、数々の武功をたて、御船城城主となりました。宗運は、その後も阿蘇家の腹心として、中央に覇を唱える島津軍に一歩も領地に踏み込ませませんでした。宗運の病死後は、長男の宗立が跡を継ぎました。天正の頃、豊臣秀吉が隈本城主に佐々成政封じたことで、肥後領民の生活が過酷を極めたことから、宗立は、諸将と図り一揆を起こしました。佐々軍、立花軍を前に怯むことなく、勝ち進みましたが、今一歩というところで家臣の裏切りに遭い、あえなく敗退する事となりました。手足に傷を負った宗立は、この地の里人(現斎主の祖先)に助けを求めました。里人は、敗戦の将を隠す後難をも恐れず、手厚い看護をしました。宗立亡き後に、里人は、祠を建て、その霊を弔ったところ、近郷の領民が
続々と信仰するようになり、現在に至っては、九州一円や遠県からも手足の健康を願う参詣者が訪れるように成りました。
 
 
◆ 周辺の見どころ
下六嘉湧水群
井寺古墳
 
 
◆鎮座地
熊本県益城嘉島町上六嘉2242 
 
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◇参考資料
足手荒神・甲斐神社の公式WEBより