足の神様・仏様

日本全国の足の神様漫遊記

薬師寺【奈良県奈良市】

薬師寺の紹介
京都と奈良を結ぶ近鉄電車の橿原線に乗り、西の京駅で下車すると、歩いてすぐのところにあります。西の京駅で下車すると、最寄の入口が與楽門(北受付)となるのですが、当日は、車で行ったので南門(南受付)側からの参詣となりました。駐車場から南門に至る途中に休ヶ岡八幡宮があり、参詣者は、必ず八幡宮を参拝してからお寺をお参りすのが習わしのようでした。南門を抜けると正面に中門があり、中門の先には、立派な金堂があって、堂内には、薬師三尊像が祀られています。金堂の両脇には、長年の風雪に耐えてきた東塔と華麗な朱色が映える西塔があります。
金堂の後方には、大講堂があり、本尊に弥勒三尊像、後堂に釈迦十大弟子の像、仏足石、仏足石歌碑が安置されています。仏足石は、釈迦十弟子像の間に安置されてたので、十大弟子の像に見とれていた私は、仏足石の前を通り過ぎてから、その存在に気づくというハプニングもありました。
 
 
◇仏足石とは
釈迦入滅後、仏教徒の間では、偶像崇拝に否定的な信徒が多く、約500年の間、仏像が造られることはありませんでした。その頃の仏教徒は、仏塔や菩提樹の模様、石に刻まれた法輪図や仏様の足の図などを拝んでいました。その様な風習がのちに仏教が伝来した国々にも伝わるようになりました。
薬師寺の仏足石は、日本最古のものと言われ、インドの鹿野苑(ろくやおん)にあった仏足石を唐の王玄策が写し帰って、長安普光寺に置いたのを、遣唐使の一人が入唐して写し、平城京の禅院に伝えのが、日本伝来の由来だと言われています。
禅院に伝えられた仏足石を、文屋真人智努(ぶんやのまひとちぬ・天武天皇の孫)が亡夫人の追善供養のために、着手から十三日を要して石に刻ませたのが日本で最初の仏足石となりました。
 
 
◇宗派・御本尊など
薬師三尊像
聖観音菩薩像
弥勒三尊像
釈迦十大弟子
 
 
 
◇ 由緒
薬師寺は、天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城京遷都(710)に伴い現在地に移されました。当時の大伽藍は金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が立ち並び、その美しさは人々の目を奪いました。しかし、享禄元年(1528)に東塔を除く諸堂が戦火で焼失してしまい、昭和初期には、仮の金堂の屋根も雨漏りがするほどだったそうです。第124代の管主となった高田好胤師は、白鳳伽藍の復興を発願され、お写経勧請を一般大衆に呼び掛けました。その結果、多くの人々の支持を受け、金堂、西塔、中門、回廊、大講堂が再建され、壮美な白鳳伽藍が復興されました。

◆ 周辺の見どころ
 
 
◆住所
奈良県奈良市西の京町457
 
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◇参考資料  奈良薬師寺 公式サイト