足の神様・仏様

日本全国の足の神様漫遊記

足王さん【秋田県仙北市】

◆足王さんの紹介

足王さんは、秋田の小京都ともいわれる角館に鎮座されています。祠は秋田新幹線角館駅で下車し、タクシーで郊外の大威徳山方面に向い、大威徳橋を越えてすぐの右手の森の中にあります。所要時間は、10分足らずでした。タクシーの運転手さんに足王さんと言っても分かってもらえなかったのですが、場所を伝えると「あ~、足神さんねっ!」と言われました。タクシーで田んぼのあぜ道のような所まで入って頂き、小さな祠に詣でました。センの大木の後ろにある祠には、祈願した方が納めて行かれたのか、絵馬やわらじのようなものがありました。乗車したタクシーの運転手さんや、稲庭うどんをすすったお店で色々聞いてみましたが、特筆すべき地元情報は、得られませんでした。そこで、神社の由来などを仙北市役所にメールで問い合わせたところ、総務課文書広報係の方から、丁寧な返信と『角館誌』で足王さんについて記載されたページの資料を添付して頂きました。お忙しいところを対応して頂いた担当の方には、この場を借りて感謝申し上げたいと思います。
 
 
◆足の神様とは
 
『角館誌』の記載をそのまま以下に抜粋転写します。
 
別当は、花脇家、藤原潔家、菅幸次郎家、千葉正太郎家で、お祭りは4月8日の社日だったが、のちに5月8日になっている。社格もなく、ご神体も何なのか定かではないが、古くから広い信仰を集め、人々の難儀を治してくれる神社として知られていた。
 
ということで、由来や御祭神については、全く分かりません。
  
◇御祭神
不詳 
 
 
◇ 祭礼
例大祭     5月8日
 
 
◆ 周辺の見どころ
武家屋敷
 
◆鎮座地

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秋田足王社鳥居

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秋田角館足王社 祠

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秋田足王社
◇参考資料
WEB上の記載は全くなく、難儀しましたが書籍を参考にしました。
『角館誌』
『病気を癒す小さな神々』 立川昭二 著 平凡社
 
元記事投稿日  2011年2月5日(土)

満足稲荷神社【京都府京都市】

◆満足稲荷神社の紹介
満足稲荷神社は、京都市地下鉄東西線東山駅を降りてすぐのところにあります。「満足」の名前の由来は、豊臣秀吉が大神のご加護に感謝し、満足した事が由来となっているそうです。本殿には、「お稲荷様」(倉稻魂命:うかのみたまのみこと)が祀られています。末社には、天照大神大国主命、猿田彦神が祀られています。
正月三日に参拝したのですが、境内は、閑散としていました。歩いて10分程のところに平安神宮もあったので、足をのばしましたが、こちらは、ごった返すような人の波!非常に対照的でした。しかし、満足稲荷社の境内には、樹齢400年のご神木「もちの木」や撫でると頭が良くなるという「岩神さん」など見どころは沢山あります。
 
◆足の神様とは
 
満足稲荷神社は、「足の神様」という訳ではないのですが、「満足」という社名が気になり、参拝に行ってみました。境内には、岩神さまが祀られており、「岩神さんをさすり、頭をなでると頭が良くなり、いたいところ悪いところをさすると治ると言い伝えられています」という案内の表示がありました。
  
◇御祭神
本社   倉稻魂命(うかのみたまのみこと)
末社   大神宮社 天照大神
      大国主社 大国主命
      猿田彦社 猿田彦神 
 
 
◇ 祭礼
例大祭     5月1日
御火焚祭   11月8日
 
 
◇ 由緒
後陽成天皇の文禄年間、豊臣秀吉の勧請により、もと伏見桃山城内に鎮座し、同城の守護神として秀吉公の崇敬を受け、秀吉公もそのご加護に大変満足していたところから社名が満足稲荷となったと言われています。後に徳川綱吉公が現在の地に遷祀し、秀吉公にあやかって、出世や心願成就、開運を願う人々が参拝するようになりました。
 
 
 
◆ 周辺の見どころ
国立近代美術館
 
 
 
 
◆鎮座地
京都市左京区東大路仁王門下る東門前町527
 

 

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満足稲荷鳥居

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満足稲荷拝殿

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岩神さん

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満足稲荷神社二の鳥居
◇参考資料
神詣(かみもうで)の公式WEBより

http://www.kamimoude.org/index.html

旧記事投稿日 2011年1月24日(月)

筥崎宮【福岡県福岡市】

筥崎宮の東末社・池島殿の紹介
 
福岡市営地下鉄筥崎宮前駅で下車すると、すぐに筥崎宮の参道にでます。境内正面には、文禄3年(1594)筑前領主の小早川隆景が建立し、国指定重要文化財にも指定されている楼門があります。楼門は、「敵国降伏」の扁額を掲げていることから伏敵門とも呼ばれています。楼門の左手後方に東末社、右手後方には、西末社があります。足の神様として信仰を集めている池島殿は、東末社に祀られています。
 
◆足の神様とは
 
 須佐之男命が高天原を訪ねていった時、天照大神須佐之男命が自分の国を奪いに来たと思い、武装して迎えました。須佐之男命はこれを恐れ、武装を解いてくれるように頼みましたが、天照大神は信じませんでした。須佐之男は誓約(うけひ)を行うことを申し出、「生まれるのが男神であれば私に異心がないからだと信じてください」と誓約しました。
うけひの結果、天照大神須佐之男命の剣から三柱の女神を生み、須佐之男命は天照大神の曲玉から五柱の男神を生みました。こうして天照大神須佐之男命は和解しました。三女神は須佐之男命の剣から生まれたので須佐之男命の子とし、五男神天照大神の曲玉から生まれたので天照大神の子としました。
須佐之男命の子となった三女神が、田心姫神湍津姫神、 市杵島姫神であり、三柱を合わせて宗像三女神と称しています。
池島殿には、古くから手足の守り神として信仰を集め、「わらじ信仰」があります。わらじをお供えして、病気平癒を祈り、治癒すると再びわらじをお供えしてお礼参りをするという風習があります。手足の守り神としてなぜ祀られるようになったのかは、不明ですが、宗像三女神は、旅の安全を祈願する道の神様として崇めらることが多いので、そこから手足の神様として祀られるようになったのではないかと思われます。
 
 
◇池島殿の御祭神
池島殿(いけしまでん)
   宗像三女神(むなかたさんにょしん)
   田心姫神 (たごりひめのみこと)
   湍津姫神 (たぎつひめのみこと)
   市杵島姫神(いちきしまひめのみこと)
荒神社(あらじんじゃ)
   軻遇土命(かぐつちのみこと)
   奥津彦命(おくつひこのみこと)
   奥津姫命(おくついめのみこと)
酒造神社
  少彦名命(すくなひこなのみこと)
  大山咋神(おやまくいのかみ)
  倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
 
 
◇ 祭礼
池島殿祭     6月の第4日曜日
 
 
◇ 筥崎宮の由緒と祭礼
 
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后玉依姫命をお祀りしています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。
鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏大内義隆小早川隆景豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。
 
 
◆鎮座地
福岡県福岡市東区箱崎1-22-1 
 

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筥崎宮正面の楼門


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筥崎宮末社

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末社池島殿

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池島殿のわらじ信仰
◇参考資料
筥崎宮箱崎)の公式WEBより
 
 
 
旧記事投稿日 平成22年10月5日(火)

足立山妙見宮【福岡県北九州市】

◆足立山妙見宮の紹介

新幹線で小倉駅を降りてバスに乗り、バス停「黒原1丁目」で下車。「黒原」交差点を足立山のほうに向かって歩き、右側の最初の曲がり角(マンションの手前)を曲がって、しばらく歩くと、「黒原階段」(通称:裏参道)がありますので、その階段を約7~8分かけて登りきったところが、足立山妙見宮(御祖神社)です。
鳥居をくぐり、参道の階段を登り切ると左手に、足立山山頂にある妙見上宮へ向かう登山口があります。登山口の方向に向かって少し歩いたところに、猪に乗った和気清麻呂公の像が安置されています。妙見宮の拝殿を参拝した後、山頂の妙見山上宮まで歩こうとすると、「徒歩80分」という表示が目に飛び込んできました。往復の時間を考えると、制限時間ギリギリ!ここまで来て妙見上宮を参拝しないのは、『徒然草』の「仁和寺にある法師」同然!意を決して歩き出したものの、15分ほど歩いて、道を間違ったことに気づき、あえなく断念。もと来た道を引き返しました。次回、小倉を訪れた時には、再チャレンジするという目標ができました。
 
◆足の神様とは
 
和気清麻呂公が神様として崇められるのは、 足の怪我、左遷という逆境にもめげず、国家の安泰を願って信念を貫き、平安京の造営にも大きく貢献したからではないかと思います。和気清麻呂公のような政治家が現代に求められているのではないかと思います。
 
 
神仏習合の神社
770年、和気清麻呂公の四男、磐梨妙運が足立山に妙見宮を創建し、772年には、国司、大伴百世の助けを借りて、葛原峰が坂の足立に下宮、足立山平癒寺を建立しました。1601年、細川忠興が眼病平癒を祈願し、成就したことから、下宮・平癒寺を現在の地に移し、鎮祭しました。明治時代になって、足立山平癒寺は、御祖(みおや)神社と改称しましたが、1945年に足立山妙見宮を再称し、全国妙見総本宮として、現在に至っています。
 
 
 
◇ 祭礼
和気公祭               2月21日
春季例大祭             4月15日
夏越祭(茅の輪くぐり神事)     7月31日~8月1日
 
 
◇ 由緒
 
称徳天皇神護景雲3年(769) 、和気清麻呂公は、勅命を受け、皇位を奪おうとした僧侶、弓削道鏡の野望を打ち砕こうとしましたが、権力を掌握していた道鏡の怒りを買い、逆に大隅国(現在の九州地区)に左遷されました。道中では、道鏡の放った刺客に足の筋を切られ、大分の宇佐に逃れました。その際、数百頭の猪が現れ、清麻呂公を背に乗せて助けたと言われています。宇佐神宮で神のお告げを受けた清麻呂公は、豊前国竹和山麓の湯川にある霊泉につかりました。すると、不思議にも数日で足の傷は癒えました。それ以来、この山を足立山というようになったと言われています。
立山に登った清麻呂公は、十数日に及ぶ断食を行い、造化神北辰尊星妙見に天皇家の安泰をお祈りしました。妙見様のお告げどおり、翌年には、光仁天皇が即位し、天皇家は、安泰となりました。野望を打ち砕かれた道鏡は、下野国へ流されて、清麻呂公は、平城京に呼び戻されました。その後、公の四男である磐梨妙運を当地に送り、足立山妙見宮を創建しました。
 
 
 

◆ 周辺の見どころ

立山遊歩道
 
立山麓文化村
立山麓ギャラリー
  
 
 
◆鎮座地

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妙見山

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妙見宮参道

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妙見宮拝殿

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和気清麻呂公像


 
 
 
 
  
◇参考資料
立山妙見宮の公式WEBより
 
元記事投稿日 平成22年10月1日(金)

足手荒神・甲斐神社【熊本県上益城郡】

◆甲斐神社(足手荒神さん)の紹介

甲斐神社は、地元の人達には、足手荒神(あしでこうじん)さんと呼ばれています。熊本駅からバスを乗り継いでも行けるのですが、時間の関係もあり、今回は、熊本市の繁華街を走る市電の水道町駅から終点の健軍駅まで乗り、そこから10分ほどかけてタクシーで移動という形をとりました。9月20日には、馬追い祭りがあるらしく、足手荒神さんに向かう途中で1トンはあろうかと思われる大きな馬をハッピ姿の人達が引いているのを見かけました。
足手荒神さんが、鎮座されているのは、嘉島東小学校南側の田んぼや民家の中の木々が生い茂った所です。鳥居をくぐると、拝殿には、木製の手型、足型、ギブス等が奉納されていました。また、神社周辺は、湧水が豊富らしく、湧水天然プールなど下六嘉湧水群の水は驚くほど澄んでいました。
 
 
◆足の神様とは
 
天正15年(1587)、隈本城主として肥後国に封ぜられた佐々成政の苛政に憤慨した領民たちを取りまとめ、甲斐宗立は、諸将と図り、一揆を起こし、隈本城を攻めました。一時は、優勢を保ちましたが、配下の謀反もあり、立花・島津軍に追われる身となりました。手足に傷を負った宗立を、現在の神社がある場所に居住していた領民たちが匿い、手厚く看護をしました。しかし、宗立は、戦後半年して、毛利軍の手により最後を遂げました。自らの危険をも顧みず、手厚い看護を施した領民に感激し、宗立は、最後に臨んで、「魂魄この世に留まり、子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであらう」と言い残して、この地で落命したと言います。
その後、近郷の領民の信仰を集め、ご利益を受け、手足の病が快癒した諸人が、手型、足型、松葉杖、コルセット等を寄進するようになりました。 
 
 
◇御祭神
甲斐民部大輔親直入道宗運公
(かいみんぶだいゆうちかなおにゅうどうそううんこう)
甲斐相模守親英入道宗立公
(かいさがみのかみちかひでにゅうどうそうりゅうこう)
 
 
 
◇ 祭礼
手型、足型、神符焼納祭     1月15日
足手荒神例大祭          2月15日
松葉杖、コルセット清め祓い祭 12月15日
月次祭        毎月1日、15日
 
 
◇ 由緒
阿蘇家の家臣として仕えていた甲斐宗運は、数々の武功をたて、御船城城主となりました。宗運は、その後も阿蘇家の腹心として、中央に覇を唱える島津軍に一歩も領地に踏み込ませませんでした。宗運の病死後は、長男の宗立が跡を継ぎました。天正の頃、豊臣秀吉が隈本城主に佐々成政封じたことで、肥後領民の生活が過酷を極めたことから、宗立は、諸将と図り一揆を起こしました。佐々軍、立花軍を前に怯むことなく、勝ち進みましたが、今一歩というところで家臣の裏切りに遭い、あえなく敗退する事となりました。手足に傷を負った宗立は、この地の里人(現斎主の祖先)に助けを求めました。里人は、敗戦の将を隠す後難をも恐れず、手厚い看護をしました。宗立亡き後に、里人は、祠を建て、その霊を弔ったところ、近郷の領民が
続々と信仰するようになり、現在に至っては、九州一円や遠県からも手足の健康を願う参詣者が訪れるように成りました。
 
 
 

◆ 周辺の見どころ

下六嘉湧水群
井寺古墳
 
 
 
 
◆鎮座地
熊本県益城嘉島町上六嘉2242 

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足手荒神全景

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足手荒神正面

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足手荒神の奉納品

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足手荒神拝殿


◇参考資料
足手荒神・甲斐神社の公式WEBより
 
旧記事投稿日 平成22年9月19日(日)

薬師寺【奈良県奈良市】

薬師寺の紹介
京都と奈良を結ぶ近鉄電車の橿原線に乗り、西の京駅で下車すると、歩いてすぐのところにあります。西の京駅で下車すると、最寄の入口が與楽門(北受付)となるのですが、当日は、車で行ったので南門(南受付)側からの参詣となりました。駐車場から南門に至る途中に休ヶ岡八幡宮があり、参詣者は、必ず八幡宮を参拝してからお寺をお参りすのが習わしのようでした。南門を抜けると正面に中門があり、中門の先には、立派な金堂があって、堂内には、薬師三尊像が祀られています。金堂の両脇には、長年の風雪に耐えてきた東塔と華麗な朱色が映える西塔があります。
金堂の後方には、大講堂があり、本尊に弥勒三尊像、後堂に釈迦十大弟子の像、仏足石、仏足石歌碑が安置されています。仏足石は、釈迦十弟子像の間に安置されてたので、十大弟子の像に見とれていた私は、仏足石の前を通り過ぎてから、その存在に気づくというハプニングもありました。
 
 
◇仏足石とは
 
釈迦入滅後、仏教徒の間では、偶像崇拝に否定的な信徒が多く、約500年の間、仏像が造られることはありませんでした。その頃の仏教徒は、仏塔や菩提樹の模様、石に刻まれた法輪図や仏様の足の図などを拝んでいました。その様な風習がのちに仏教が伝来した国々にも伝わるようになりました。
薬師寺の仏足石は、日本最古のものと言われ、インドの鹿野苑(ろくやおん)にあった仏足石を唐の王玄策が写し帰って、長安普光寺に置いたのを、遣唐使の一人が入唐して写し、平城京の禅院に伝えのが、日本伝来の由来だと言われています。
禅院に伝えられた仏足石を、文屋真人智努(ぶんやのまひとちぬ・天武天皇の孫)が亡夫人の追善供養のために、着手から十三日を要して石に刻ませたのが日本で最初の仏足石となりました。
 
 
◇宗派・御本尊など
薬師三尊像
聖観音菩薩像
弥勒三尊像
釈迦十大弟子
 
 
 
◇ 由緒
 
 
薬師寺は、天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城京遷都(710)に伴い現在地に移されました。当時の大伽藍は金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が立ち並び、その美しさは人々の目を奪いました。しかし、享禄元年(1528)に東塔を除く諸堂が戦火で焼失してしまい、昭和初期には、仮の金堂の屋根も雨漏りがするほどだったそうです。第124代の管主となった高田好胤師は、白鳳伽藍の復興を発願され、お写経勧請を一般大衆に呼び掛けました。その結果、多くの人々の支持を受け、金堂、西塔、中門、回廊、大講堂が再建され、壮美な白鳳伽藍が復興されました。

◆ 周辺の見どころ
 
 
◆住所
奈良県奈良市西の京町457
 

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薬師寺伽藍

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薬師寺西搭

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大講堂

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仏足石

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仏足跡歌碑

◇参考資料  奈良薬師寺 公式サイト
元記事投稿日  平成22年8月30日(月)

服部天神宮【大阪府豊中市】

◆服部天神宮の紹介

大阪の梅田と宝塚を結ぶ阪急電車宝塚線の阪急服部駅で下車し、駅の東側にある服部元町商店街の中に入っていくと鳥居があります。鳥居をくぐると本殿に至るまでの参道の右手には、神社の由来が絵物語で紹介されています。表参道は、国道176号線沿いにあり、参道入口には、「服部天神宮」、「足の神様」と書かれた朱塗りの門があります。鳥居をくぐって、正面が拝殿、左手には末社豊中えびす神社があります。鳥居の右手には、天神丸の碑、祖霊社、末社の初酉稲荷社、菅公像、わらじ堂などが配置されています。
8月25日は、毎年、夏天神祭の本祭があり、今回も、足の守護祈願大祭が実施されていました。祭典は、用意されていた椅子が足りなくなるほどの賑わいぶりでした。祭典終了後は、宮司より特大金幣のお授けがあったり、神職が人形(ひとがた)を使って参列者のおみ足をさすって健脚を祈願する行事が行われました。
 
 
◇足の神様とは
平安時代、右大臣・菅原道真公は、ざん訴に遭い、大宰府に左遷されることとなりました。京都から遥か筑紫の国に向う途次、この地で持病の脚気に悩まされ、一歩も歩くことが出来なくなりました。菅公は、村人に勧められ、医薬の祖神「少彦名命」を祀る小祠に詣で、平癒を祈願されたそうです。また、小祠の傍にある五輪塔奈良時代の政治家で菅公と同じ境遇で左遷の浮き身に遭った藤原魚名公の墳墓であることを知らされ、供養を捧げられました。すると、不思議に足の痛みやむくみが解消し、無事大宰府に向けて旅立たれたと言います。
 
 
 
少彦名命(すくなひこなのみこと)
 
 
◇祭礼
5月3日     初酉稲荷祭
6月30日    水無月大祓式
8月24、25日 夏天神祭(24日宵宮祭)
     (25日本祭・足の守護祈願大祭)
10月25日   例大祭(秋祭)
11月15日   七五三まいり(11月中毎日受付)
12月31日   晦大祓式
12月31日   除夜祭
 
 
◇由緒(境内に設置の絵物語より)

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  昔、朝鮮を経由して、吾が国へ渡ってきた秦の人々は、機織の技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏を与えられ、機織部として各地に住みつきました。
  当地、「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。
  秦氏は、医薬の祖神・少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。
 

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   秦氏の人々がこの地に移り住んで数百年が過ぎ、時は延喜元年(西暦901年)の春、右大臣・菅原道真公は、無実の罪をきせられて、九州大宰府へ左遷される途中、このあたりまでこられて持病の脚気に悩まされ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。
   その時、村人たちは、少彦名命をおまつりしてある天神祠に詣でて、足病の平癒を祈願されるようにおすすめしました。
 

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少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また、生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められましたので、この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申し上げますならば、必ずやおみ足の具合も良くなられると思います。」
  このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へと向かわれました。
 

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  菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。
  そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に、大宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣藤原魚名公の墓であることをお知りになった菅公は、「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」と嘆ぜられ、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されると共に、魚名公の霊をもねんごろにとむらわれました。

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 ると、不思議にも間もなく菅公の足のむくみや痛みは治りました。こうして少彦名命と魚名公の霊の加護によって足の病がいえた菅公は、ふたたび九州へと旅立たれ、無事に大宰府へ到着されました。

 

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  菅公が大宰府においてなくなられたあと、菅公を神として尊崇する天神信仰が全国にひろがりました。
  当社も菅公の霊を合祀し、「服部天神宮」として社殿を造営し、「菅公脚気平癒の霊験」を伝え聞いた全国よりの参詣人とまた当地が能勢街道の要所であったこととで、次第に門前市をなすようになり、ことに江戸時代の中期から末期にかけては、その最盛期であり、境内外は、非常な賑わいをみせたのでした。
 
 
◇天神丸の碑について
  江戸時代、服部天神宮は、脚気を患った人々が全国から参詣するようになりましたが、これを目当てに森田神納堂(天神丸本舗)が境内に店を出し、天神丸という妙薬を販売し、大層はやったと伝えられています。しかし、次第に主人が驕り高ぶるようになり、「脚気が治るのは、うちの天神丸があるからだ」と、天神宮のご神徳を軽んずる発言をし、宣伝するようになりました。神社側は、主人の傲慢な態度を見かねて、天神丸本舗を境外に放逐しました。天神宮から300m余り離れた所に移転した天神丸本舗は、その後、さっぱり流行らなくなり、店を閉じることとなりました。その後、天神丸本舗跡にあった碑を宮司が境内に移築したのが天神丸の碑の由来です。

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服部天神宮_天神丸の碑
◆ 周辺の見どころ
  服部住吉神社
  服部緑地公園(徒歩1.2km)
  (最寄り駅は、北大阪急行の緑地公園駅)
 
 
 
◆鎮座地
大阪府豊中市服部元町1-2-17
 
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商店街から服部天神宮へ

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服部天神宮_正面

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服部天神宮_境内

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服部天神宮_奉納

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服部天神宮_拝殿

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服部天神宮_鳥居

◇参考資料  服部天神宮の公式WEB
 
 
元記事投稿日 平成22年8月26日(木)